『ピンゲラップからの脱出』を3回に分けて連載してまいりましたが、思わぬ展開がありましたので、ご報告いたします!
ピンゲラップの第2回目の投稿を載せていた頃に一通のメールが御社に届きました。
割愛していますが、内容はおおよそこんな感じです。
突然メールを差し上げるご無礼をお許しください。私は、特定非営利活動(NPO)法人パシフィカ・ルネサンス代表理事の長岡拓也と申します。
私達のNPO法人は、太平洋の島々の伝統文化や歴史の記録や調査を行い、得られた情報を若い世代の教育に活用したり、日本と歴史的なつながりの深い島々との交流を促進することを目的としています。
さてこの度メール差し上げたのは、貴社のブログで「ピンゲラップ島からの脱出」という非常に興味深い記事を拝見したからです。私は今年初めからこのピンゲラップ島で昔話を記録・出版する事業を開始しました。その際、この話をピンゲラップの老人から録音することができました。つきましては、このお話をご提供されている方に直接お話をお聞きできればと思います。もちろんご本人様のご意思を尊重させていただきたいので、ご本人のご了承をお取り頂ければと思います。
ん?おっ!?オー!!!最初はなんのことがサッパリわからなかったのですが、研究者の方から是非、T氏ご本人に当時の話を直接聞きたい、取材したいとのご連絡でした。
さっそくご連絡し、ご本人にも快く承諾を得て、藤乃屋での取材の日取りを決めました。
しかし残念ながらお約束の日にご本人が体調不良の為に中止に。
私のみ、長岡氏と会ってご挨拶させて頂きました。
◯長岡氏の現地取材の様子
そこで詳しく長岡氏から事情を聞くと前回の現地取材の際、ピンゲラップ島に訪問。そこでなんとあのコンパのオブライアン(詳しくは「ピンゲラップからの脱出その1・その2」を参照)の奥様にお会いしたそうです。80代後半の彼女から、まさにピンゲラップ島からの脱出で紹介したエピソードを島民サイドからお聞きになったとのこと。そして帰国し、偶然「ピンゲラップ島からの脱出」見つけられたようです。島民から聞いたエピソードがそのまま日本人サイドからの話として載っていたものだから驚いて、スグにメールしてくださったそうです。
あのピンゲラップ島が爆撃を受け、夫のオブライアンが亡くなったあの日は4月8日で、今でも島では毎年4月8日には慰霊の催しが行われているとのこと。日本人たちが潜水艇に載って帰っていったことなどもT氏の談話そのままでした。そのことを伝える歌まであって彼女が唄っている録音テープを聴かせて頂きました。短い歌で当然言葉も全くわからないのですが途中「センスイカン~」なんて歌詞もありました。
タイミング悪くお約束の3日後には6ヶ月間の現地取材に向かわれる長岡氏とT氏の対面は春まで延期となってしまい、まだ実現できていません。
しかし、今回お聞きした話をTさんに伝えると「おーアイツまだ生きてたんか!!」「確か他の島から来た若くて可愛い子やった。」と喜んだ後、「あの時はオブライアンの親になぜ息子と一緒に逃げてくれなかったんだ!と泣かれたわ・・・。」と当時のことを思い出して悲しげでした。そしてオブライアンさんは、お世話のお礼にお金を渡そうとしても「私がTさんのお世話をするのは当たり前だから。」といって一切受け取らなかった。本当にいいヤツだったと仰っていました。
遠く離れた南の島と日本が70年の時を超えて、ブログと一通のメールで繋がりました。それに何の意味があると言われればそれまでですが、私は本当に良かったな~と思っています。90代利用者様と30代介護職と40代研修者と80代ピンガラップ島民が繋がった偶然の出来事を幸せに感じつつ、今回は真面目なままサヨウナラ
取材の様子は春頃にまた\(^o^)/
kawaguchi