ピンゲラップ続報

とうとう、とうとう!

とうとう念願の・・

ピンゲラップ島に関しての取材が敢行されました!

詳細はこちらに

長い間、取材で現地にいかれていた、パシフィックルネッサンスの長岡氏より連絡をいただき、藤乃家に改めて来訪していただくことに(^◇^)

今回は、ご本人に直接当時の様子を伺うとともに、ビデオ撮影まで!

このビデオはいずれポリネシアと日本双方の教材にするべく編集されるそうです。

youtubeにもアップされるということなので、アップされた際にはお知らせします(^O^)/

★こちら長岡氏と谷岡氏(藤乃家前にて撮影)

12033670_914440111982164_190123418_n

 

kawaguchi 佳十 けいと 義十 あきと お仕事してたらいろんな人に会えるぞー 将来いろんなことして、いろんな人に会うんやぞー

ピンゲラップ島からの脱出~番外編~

『ピンゲラップからの脱出』を3回に分けて連載してまいりましたが、思わぬ展開がありましたので、ご報告いたします!

ピンゲラップの第2回目の投稿を載せていた頃に一通のメールが御社に届きました。

割愛していますが、内容はおおよそこんな感じです。

突然メールを差し上げるご無礼をお許しください。私は、特定非営利活動(NPO)法人パシフィカ・ルネサンス代表理事の長岡拓也と申します。

私達のNPO法人は、太平洋の島々の伝統文化や歴史の記録や調査を行い、得られた情報を若い世代の教育に活用したり、日本と歴史的なつながりの深い島々との交流を促進することを目的としています。

さてこの度メール差し上げたのは、貴社のブログで「ピンゲラップ島からの脱出」という非常に興味深い記事を拝見したからです。私は今年初めからこのピンゲラップ島で昔話を記録・出版する事業を開始しました。その際、この話をピンゲラップの老人から録音することができました。つきましては、このお話をご提供されている方に直接お話をお聞きできればと思います。もちろんご本人様のご意思を尊重させていただきたいので、ご本人のご了承をお取り頂ければと思います。

ん?おっ!?オー!!!最初はなんのことがサッパリわからなかったのですが、研究者の方から是非、T氏ご本人に当時の話を直接聞きたい、取材したいとのご連絡でした。

さっそくご連絡し、ご本人にも快く承諾を得て、藤乃屋での取材の日取りを決めました。

DSC_0070

しかし残念ながらお約束の日にご本人が体調不良の為に中止に。

私のみ、長岡氏と会ってご挨拶させて頂きました。

◯長岡氏の現地取材の様子

MRnagaoka

そこで詳しく長岡氏から事情を聞くと前回の現地取材の際、ピンゲラップ島に訪問。そこでなんとあのコンパのオブライアン(詳しくは「ピンゲラップからの脱出その1・その2」を参照)の奥様にお会いしたそうです。80代後半の彼女から、まさにピンゲラップ島からの脱出で紹介したエピソードを島民サイドからお聞きになったとのこと。そして帰国し、偶然「ピンゲラップ島からの脱出」見つけられたようです。島民から聞いたエピソードがそのまま日本人サイドからの話として載っていたものだから驚いて、スグにメールしてくださったそうです。

あのピンゲラップ島が爆撃を受け、夫のオブライアンが亡くなったあの日は4月8日で、今でも島では毎年4月8日には慰霊の催しが行われているとのこと。日本人たちが潜水艇に載って帰っていったことなどもT氏の談話そのままでした。そのことを伝える歌まであって彼女が唄っている録音テープを聴かせて頂きました。短い歌で当然言葉も全くわからないのですが途中「センスイカン~」なんて歌詞もありました。

10805628_644099635707207_1346614245675032615_n

タイミング悪くお約束の3日後には6ヶ月間の現地取材に向かわれる長岡氏とT氏の対面は春まで延期となってしまい、まだ実現できていません。

しかし、今回お聞きした話をTさんに伝えると「おーアイツまだ生きてたんか!!」「確か他の島から来た若くて可愛い子やった。」と喜んだ後、「あの時はオブライアンの親になぜ息子と一緒に逃げてくれなかったんだ!と泣かれたわ・・・。」と当時のことを思い出して悲しげでした。そしてオブライアンさんは、お世話のお礼にお金を渡そうとしても「私がTさんのお世話をするのは当たり前だから。」といって一切受け取らなかった。本当にいいヤツだったと仰っていました。

遠く離れた南の島と日本が70年の時を超えて、ブログと一通のメールで繋がりました。それに何の意味があると言われればそれまでですが、私は本当に良かったな~と思っています。90代利用者様と30代介護職と40代研修者と80代ピンガラップ島民が繋がった偶然の出来事を幸せに感じつつ、今回は真面目なままサヨウナラ

取材の様子は春頃にまた\(^o^)/

kawaguchi

NPO法人 パシフィカルネッサンスのFBページはこちら→https://www.facebook.com/PashifikaRenaissance984153_582662255184279_2813532825165069190_n

ピンゲラップ島からの脱出 その3

お待たせ致しました!!いよいよピンゲラップシリーズも最終回です!再度、確認しておきますが、画像は皆さんのイメージを手助けするものであって、この物語の内容とは一切関係のない画像もあります。ご了承くださいm(__)mでは、「ピンゲラップ島からの脱出」堂々の完結編、はじまりはじまり~

※その1、その2を読んでいない方はこちらへ→ピンゲラップ島からの脱出まとめ

『ピンゲラップ島からの脱出~運命のクジ引き~』

15.ようやく潜水艇に乗り込めたTさん達でしたがトラック島までの航行は簡単なものではありませんでした。日中の航行は連合軍からの攻撃を受ける恐れがあるため夜にしか航行できないことや、途中、乗っている潜水艇が日本軍の作戦に参加しなければならなかった為です。太平洋のど真ん中、真っ暗で狭い潜水艦の中で、命の危険が付きまとう日が何日も何日も続いたのでした。

naibu28naibu

補足:Tさん達が所属していたのはポナぺの測候所だっだそうですが、当時、軍の中心はトラック島であったらしく、ポナペには送ってもらえなかったそうです。

16.やっとの思いでトッラク島についたTさんに上官はこう言ったのでした。「ここに8人もいらない。お前らのうち4人はサイパン島のサイパン支庁に行け。」Tさんらは言いました。「ここまで一緒に来た仲間を自分たちでは分けることをできません。」すると上官は「クジ引きでもして決めろ!」と命令したのでした。

jyoukan

補足:「クジっだったか、ジャンケンだったか・・・。」とにかくその時は深く考えずに適当に決めたとTさんはおしゃっていました。ここは物語的にクジを採用(笑)

17.サイパン島に行く者とトラック島に残る者を決める運命のクジ引きが行われました。麻紐で作った簡単なクジ。先が赤ければサイパン島。先が黒ならトラック島。この粗末なクジがその後のTさん達の運命を大きく左右するとはこのときは誰も思いもよりませんでした。

麻

18.「恨みっこなしだぞ。」とつぶやき最初のクジが引かれました。次々と決まっていく仲間たちの運命。そしてTさんが引いたのは黒のクジでした。Tさんはトラック島に残ることに決まったのでした。

トラック島

補足:この頃、トラック島に残留していた日本軍は玉砕覚悟だったそうです。

19.今まで共に死線をくぐってきた仲間との別れです。トラック島に残る4人はサイパン行きの船に乗り込む4人の無事を祈り、見送ったのでした。さて神様は、この後のTさん達にどのような運命を用意しているのでしょうか。

miokuri syuupatu

20.4人を見送った数日後のこと。Tさんたちのもとに、仲間たちが乗った船が連合軍の攻撃を受け、サイパン島到着を目前に沈没したとの知らせが届きました。Tさん達は、わが身に起きたかもしれない悲劇に身を震わせ、膝をつきました。そして太平洋の真ん中で帰らぬ人となった4人の仲間達の死に、身を寄せあって涙したのでした。

bakuha

補足:魚雷での攻撃だったそうです。すでに日本軍は南洋での制海権も失っていたようです。

21.終戦が近づきトラック島に残ったTさんら4人は無事に日本に帰国しました。帰国後、大阪で商売を始め、成功を収めたTさん。現在も家族と共にお元気で幸せに暮らされています。

neyagawa

-完-

いかがでしたか?「ピンゲラップ島からの脱出」 人生ってすごいですね!この記事の掲載にあたり、ピンゲラップ島のことを調べていると、外務省のページに、最近ピンゲラップ島を訪れた日本人達を島民は大歓迎してくださった。との記事がありました。理由は「ピンゲラップ島に日本人が7人住んでいた。私たちには日本人の血が流れている,私たちはそのことを誇りに感じている。」(→その記事はこちら)とのこと。戦後70年近くの時を超えて、南洋の小さな島と極東の小さな国が今も繋がっているなんて素敵な話ではないですか!

☆その記事にあったミクロネシアでの交流の様子です!↓

ピンゲラップ

こんなお話が身近にある介護という仕事。

「介護ってほんとうにいいもんですね。」(^_^)v

kawaguchi

追記:実は、この「ピンガラップ島の脱出」のブログ掲載は、とある方からのお問い合わせにより、現在、意外な方向に話が進んでおります。どうも番外編がありそうなんです。その話は、また今度(^^ゞ

1 / 212